ウクライナ西部の都市リヴィウ(リビウ)には、「日本通り」があることをご存知でしょうか?本記事では日本通りの歴史について深掘りしていきます。
ウクライナにある日本に因んだ通り
ウクライナの都市では、ほとんどの通りに名前がついています。通りはウクライナ語では、вулиця(ヴールィツァ)と言います。
民間サイトの調査によると、2019年時点でウクライナ全土(都市または都市型集落、被占領地域は除く)に、8万5000の通りが存在し、通りの名前の種類は1万8000通りあるそうです。
それらの通りの中で、日本に関連する名前を冠した通りは2つだけ。1つは、キーウにある「京都通り(вулиця Кіото)」であり、もう一つがリヴィウにある「日本通り(вулиця японська)」です。
京都通りについては下記の記事にて簡単に触れています:
リヴィウの「日本通り」
リヴィウにある「日本通り」は、ウクライナ語で「вулиця японська(ヴールィツァ・ヤポーンシカ)」と言います。長さは約265メートルと、短い通りです。通りはブロック舗装されており、自動車がすれ違うだけの幅があります。通りに沿って木が植えられており、また狭い歩道もあります。
場所は、リヴィウの中心部にある市場広場(Площа Ринок)から南西方向に約2km。リヴィウに来た際は、リヴィウの中央鉄道駅が拠点になるかと思いますが、そこから市場広場に移動する途中にあるので、リヴィウ観光の際に気軽に立ち寄ることができるでしょう。
日本通りには、「日本通り小公園」(Сквер на Японській、スクヴェル・ナ・ヤポンシキー)があります。2016年ごろに大規模修繕がされたようで、現在では小さなベンチが複数個設置されています。設置されているリボンの形をした記念看板は、エイズとの戦いのシンボルである赤いリボンを形にしたもので、2015年に設置されました。

日本通り小公園 出典:Google Map
小公園以外には、通りに沿って、3〜5階建ての集合住宅が連なっており、得に目を引くものはありません。これらの建物の多くは、20世紀前半のオーストリア=ハンガリーまたはポーランド時代に作られたものです。日本通りの東端には、菓子レストラン「Фраєрка(フライェルカ)」があります。
「日本通り」の歴史
日本通りの名前の由来は、日露戦争における日本の勝利にあります。これを記念して、1910年に「日本通り」と名付けられました。この当時、リヴィウはオーストリア=ハンガリーの一部でした。日本通りと名付けたことは、その当時のリヴィウに住んでいた多数派のウクライナ人やポーランド人の日本の勝利に対する好意的な見方を読み取ることができます。
リヴィウはその後、第1次世界大戦中はロシア帝国に占領され、1918年には西ウクライナ人民共和国の首都となり、1918年〜1919年はポーランド・ウクライナ戦争の戦場となり、1920年からはポーランドの一部となりました。1939年にはソ連に占領され、ソ連の一部に組み込まれましたが、1941年にはドイツに占領されました。
ドイツ占領下の1943年には、日本通りは「Блюхерґассе(ブリュヘルガッセ) ー ブリュッヘル小通り」と改名されました。名前の由来は、ナポレオン戦争でのワーテルローの戦いでナポレオンを破ったプロイセン軍総司令官ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘルに基づきます。
リヴィウは1944年夏に再びソ連が占領し、1944年7月には、通りの名前は「日本通り」に戻されました。しかし、1945年10月には「ハサンシカ通り」(вулиця Хасанська)と改名されました。名前の由来は、日ソ国境紛争時の1938年の張鼓峰事件(ソ連側の名称はハサン湖事件)にあります。1945年12月に、「日本通り」に再度戻されましたが、1950年に「ハサンシカ通り」に再改名。ソ連が崩壊し、リヴィウが独立ウクライナの都市となった後の1993年に、「日本通り」に再び戻されました。
20世紀に激動の時代を歩んだリヴィウと同様、日本通りも激動の歴史を歩んできたと言えそうです。